ドラマ・銭ゲバについて 人間は誰もが不純である
>純粋な「悪」と純粋な「善」とは実は相似形である。正反対であるにもかかわらず、いや正反対であるからこそ、非常に似た部分もある。
>人間は誰もが不純である。そのことに目を伏せるから人は生きていける。
大いに共感しますね。
興味深い論評を、ありがとうございます。
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以下は、コメントの元になったブログ記事の全文です。
『銭ゲバ』、テレビドラマ化されていたらしいが僕は見ていない。僕は毎週決まった時間に決まったことをするのが苦手なのだ。ようするにズボラなのである。
ただ、ドラマ開始に合わせてジョージ秋山が書いた原作が書店に並ぶようになったので、買って読んでみた。
これは忠実にはテレビドラマ化できないだろうな・・・・・・。
というのが、読み終えた最初の感想。内容があまりにも凄惨なのである。放送禁止になること間違いなし。いや、差別表現をなくそうというヘンな風潮(あえて「ヘンな」と書くが)が浸透した現代日本においては、マンガとして描くことすら不可能なのではないか。
主人公・蒲郡風太郎は極貧な家庭に育つ。生まれつき片目に障害(または奇形)を持った風太郎を、父親は「この、生まれぞこないが!」と罵倒し、やがて愛人と家を出て行ってしまう。
母と子のふたりきり、でも母も病に伏せる。どこの病院に行っても、お金がないので誰も助けてくれない。
母は死に、風太郎は人生のある「真理」に気づく。
この世は金がすべて。
「銭のためならなんでもするズラ!」
この言葉のとおり、風太郎はどんな汚い手でも使い、時には人を殺し、大会社の社長に成り上がっていく。サクセスストーリーというにはあまりにも血なまぐさい話である。
金のためには恩人も殺す。
自分の妻も、女も、自分の子どもでさえ殺す。
でも本当は愛に飢えている。
あるとき、風太郎は偶然知り合った女学生に恋をする。お金のことなど気にしない、純真無垢な彼女の中に真実の愛を見ようとする。
だがある日、お金のために彼に身体を売ろうとする彼女を前に風太郎は愕然とする。
「君はわたしにとってたったひとつの真実だったのに!」
そして彼女も殺してしまうのである。
彼の右目は金に狂った悪魔のようだが、つぶれた左目は何も語らず、静かに泣いているように見える。
しかしともかく、彼の行動は「金がすべて」という点において首尾一貫している。悪の権化。
だが時々思うのだが。純粋な「悪」と純粋な「善」とは実は相似形である。正反対であるにもかかわらず、いや正反対であるからこそ、非常に似た部分もある。
アジアの神々の多くが、神の顔と同時に悪魔としての顔も合わせ持っているように。
聖書の中で人々が、悪魔と同じかそれ以上に神を畏怖するように。
貧乏な生活、母親の死という経験を経て彼は「銭ゲバ」になったのだが、同じ経験をバネに、苦しむ人々を救う慈善家や宗教家になることもできたはずである。何が彼の人生を分けてしまったのか。彼に言わせると「そうするしかなかった」のだろうが。
最後のページに、おそらく著者のセリフとしてこう書かれている。
「そうだ。てめえたちゃみんな銭ゲバと同じだ。もっとくさってるかもしれねえな。それを証拠にゃ、いけしゃあしゃあと生きてられるじゃねえか」
時々、実際に、「金がすべて」と主張する人に会う。逆に「愛がすべて」という言う人に会うこともある。
だがどちらも嘘だ。どちらも実行に移して生きていくことなんかできない。
純粋な「悪」をおこなえるのは悪魔だけ。
純粋な「善」をおこなえるのは神だけ。
人間は神でも悪魔でもなく、その間をフラフラしている不完全な存在にすぎない。
だから人間、何を言っても何をやってもしょせん嘘になる。人間は何も徹底できない。人間はしょせん偽善者か偽悪者にしかなれないのだ。
人間は誰もが不純である。そのことに目を伏せるから人は生きていける。
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