試練よ、ありがとうございます。
私たちは人生を送る中で、数々の試練に出会うように生まれついているようです。
それは仏教やキリスト教でも、宗教的見地から語られていますが、実体験からもつくづくそう思います。
試練に直面した時、皆さんはどんな風に考えるでしょうか?
「なぜオレだけがこんな目に会うのか?!」と考え、会う人ごとに愚痴るでしょうか?
あるいは、「やはりワタシは不幸な星のもとに生まれついているのだ~」と嘆き、半ば引き籠って日々を過ごすでしょうか?
試練を克服し、そこから一刻も早く抜け出して上昇するために、私たちが採るべき心的態度は一つしかありません。
「天よ! 試練を与えてくださり、ありがとうございます!」
この「天」と言うのは、「宇宙の意思」でもいいですし、「大自然」でも「神様のような存在」でもいいのですが・・・。
私たちちっぽけな個々人がどうすることもできない、とてつもなく大きな存在のことです。
そして、これはよく言われることですが、自分が乗り越えられる課題しか、目の前に立ちはだかることはないようです。
課題をクリアして、そこから何かを学びそれを超えていくならば、私たちはそのたびに大きな何かをつかんで成長できるようです。
眼前を阻む困難に押し潰され、ただただ他人の助けを待つばかりで長いこと苦悶の日々を送るか・・・。
克己して上を向いて立ち上がり、やがて勝利の美酒に酔うか・・・。
選ぶことができるのは、結局自分だけなのです。
また、目の前に大きな二つの分かれ道がある時、「挑戦と困難の道」を選んでも、「平和と安穏の道」を選んでも、その人に合った「試練」が、どうやら用意されているようです・・・。
さて、私が選ぶ道と心的態度は・・・。
言うまでもありません・・・。
目標や達成感があれば頑張れる
カミュの『シーシュポスの神話』という、有名なギリシャ神話があります。
あらましはこうです。
"神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。"
一見すると、無益で希望のない労働ですが、シーシュポスの場合はこの作業に喜びを感じているのだと言われています。
なぜなら、岩をごろごろと持ち上げている間、頂上に辿り着くという大きな希望があるからです。
岩は神の罰によりまたふもとに戻されるが、また新たに頂上を目指せばいいのです。
我々の日々の挑戦に参考になる、実に示唆的な寓話です。
一方、ナチスドイツや旧ロシアで行われていた拷問があります。
囚人にA地点からB地点まで荷物を運ばせ、それをまたA地点へ戻すという作業を永遠に続けさせるというものです。
どんなに意思が強い人でも、1ヶ月以内に精神障害を引き起こしたそうです。
自分が今現在やっている作業が、まったく無意味だとわかってしまうから・・・。
目標や達成感の無い労働は、人間にとって最大のストレスになります。
逆に言えば少々過酷な労働でも、夢や目標があれば頑張れますね^^
一歩を歩み出す
この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。
踏み出せば、その一足が道となる。迷わず行けよ、行けばわかる。
一休和尚
人は歩みを止めたときに、挑戦を諦めたときに年老いていくのです。
アントニオ猪木
歩き出す前から考えていると、ネガティブな想念ばかりが浮かんできて、なかなか歩き出せません。
すぐに立ち止まると、また迷ってしまいます。
方向を決めて歩き出したら、あとは足が持つ限り歩み続けましょう。
少々道を間違えても、すぐに修正すればよいのです。
方向さえ合っていれば、命ある限りいつかは目的地に辿り着けます。
満足いくだけ歩いたら少し休み、しかし休み過ぎず、また歩き出せばよいのです。
挑戦すべき事、やるべき事は鬼のようにあるので、私は悩んだり心配しているヒマがないです。(笑)
日経新聞の広告で昔から有名で、経営者の根強いファンが多い管理者養成学校の、『13日間地獄の特訓』に参加したことがあります。
その研修項目に、40km歩行訓練というのがありました。
グループ毎に、山あり谷ありの行程を、8時間を目標に歩き切るという内容です。
私はリーダーを務め、全グループ中1位でしたが、8時間7分という結果でした。
納期達成ならずという残念な結果でしたが、そこにも人生の歩み方が凝縮されて勉強になりましたね。(笑)
ちなみに、ギリで初日卒業です。